写真の精神

 

 

 

スライドショー表示

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 

のっけからカメラの話で恐縮だが,今回使用したカメラはちょうど100年前にコダックが発売した,世界で初めて距離計を搭載したカメラだ.カメラのような日進月歩の精密機械技術の中心にあり,今でも次々と最新技術が登場し続けている分野で,100年前の製品なんて使い物になるのだろうか?または,それを使うことにどれほどの意味があるのだろうか?私自身,今のようにクラシックカメラにどっぷりと浸かるまでは,そんなふうに思っただろうと思う.しかし驚くことに,このカメラのようなフィルム面積の大きなカメラでは,現在の最新デジタルカメラでも容易には及ばないような豊富な情報量をフィルムに写しこむことが出来る.そのかわり,オートフォーカスや自動露出,ズームレンズなど省力化や利便性を追求した機能は備わっていないが,1枚の写真を写すという行為そのものの満足感はむしろ高い.技術は進歩したが,記録という実用上の目的を超越した,写真撮影の精神的側面は100年経っても,あまり進歩していないのではないか?そんな気もする.ただよく写った写真をよく出来たカメラで撮るよりは,100年前のカメラでもこんなにきっちり写るのか,という喜びや驚きのほうが愉快な気がして,ますますクラシックカメラにのめり込んでいくのだ.

思うに,このような「わざわざ無駄な労力を使う」行為はなにもクラシックカメラに限ったものではない.例えばお遍路さんに代表されるような参拝だってそうだ.健脚であれば車やタクシーで効率よく回ってもあんまりありがたくない気がするし,そもそも成し遂げた本人の満足度が違うだろう.クラシックカーも同じようなもので,好き者同士が集まると故障自慢,苦労自慢のような妙なことになる.人前では笑い話にすぎないが,実のところ,大枚をはたいて買った車がダメになって,直すには大金がかかると分かった時など,もう手放さないとならないのだろうか,自分には過ぎた遊びだったのではないだろうか・・などと悶々と悩んでしまう辛さを味わっている人は多い.しかしそれを乗り越えるたびに,ますますその車に対する愛着が増すといい,いまどきの放っておいても全然壊れない快適な車とは違った意味での充実したカーライフを送っている.要するに,苦労は,楽しい.

私は,社会科,なかでも歴史は小中高生の時代に一番苦手な科目だった.少なくとも,歴史上の人物のことなど,ほとんど全く興味が持てなかった.それがクラシックカメラを通して,いつの間にか歴史に興味をそそられているのも事実だ.写真に関する技術革新の主役はフランス,イギリス,そしてドイツから日本へと移り変わっていったが,その中でこのカメラは米国で開発された.1916年といえば,泥沼の塹壕戦で欧州全域が疲弊のどん底にあった第一次世界大戦のさなかである.そんな中で米国はT型フォード(1908年発売)をきっかけとしたモータリゼーションの勃興期にあり,今でも輝きを失わないメッキ部品や当時最先端の素材であるアルミニウム(工業的生産法の発明は1886-88年)の多用など高度な技術と豪華な仕上げは当時のアメリカの勢いを感じさせる.技術者・科学者としては,開発の経緯を当時の特許資料などをあたって調べるのもまた楽しい.当時の技術者の苦労や創意工夫,見識に思いを馳せることが出来るからだ.

このカメラは122フィルムという今は生産されていない大型のロールフィルムを用いるカメラであり,標準画角のレンズは焦点距離が170mmもある.撮影するには現在のフィルムを装填できるようにいくつかの工夫や調整が必要となるが,そういう細々したプロセスを楽しんで,時代や作り手に思いを馳せ,最大限の性能を引き出して供養する.私にとってクラシックカメラとは,そういう精神的な行為なのである.

 

Kodak Autographic Special No.3A w/CRF, Kodak Anastigmat 170mm F6.3
Fujifilm Neopan ACROS,シュテックラー改処方(中川式)

(upload : Feb., 2016.)