群像

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 


(拡大)

 

 

 

 

とある学研都市に用務で出向いた.早く着きすぎたので,その学研都市の中核にあるちょっとした広場でスナップ.といってもそんな平日の昼間にうろついている人などなく,かわりにブロンズ像にモデルになってもらった.

学研都市らしく,それぞれの像(豚は除く)は科学史上の偉人の幼少期をイメージしたものらしい.これらは理系離れの阻止を意図して作られた,と決めつけるわけではないけれど,こういった偉人たちに子供たちが憧れる時代でもないだけに,いっそう寂しさが漂う.もうこれ以上,人類の知は発展しなくてよいと考えている人も最近はいるようだ.

しかし,いつからこんなことになってしまったのだろう.この地球の惨状を生んだのが人類の知であるなら,それを回復させうるのもそれしかないのに.そもそも,火や道具を使う,その人間の知の行き着いた先が現在であるとするならば,どこまでが可でどこからが不可なのか.

ここまでは,敢えて「自然科学」と「科学技術」の2つの語は使わずに,かわりに「人類の知」と書いた.これらの語を入れ替えるだけで印象は大きく変わる.しかしそもそも,これらの語にさほどの大きな差はないはずだ.現に,産業革命までは,芸術と技術は,現在ほど異なる概念ではなかった.人工の(artificial)という語の語源が美術(art)であるところなどにその歴史が残る.絵画や彫刻は,神の世界や記憶の中の一瞬を可視化する高度な科学技術でもあったのだ.

つまるところ,断罪するならば,資本主義の名の下の経済優先・利潤優先の「知の乱用」がまずかったのではないか?もちろん科学者にも倫理観は求められるし,教育の現場でもそれはよく話題になるキーワードだ.ただしかし,これは科学の発展を否定するものではない.人間の様々な活動の中でも,人類の知を発展させる,という行為の尊厳は守られるべきだと思う.その上で,その知をどう生かすかをそれぞれが自ら規律すべきなのだ.そして,知への探求はもっと純粋にあこがれの対象であって欲しい.

小西六(コニカ)パールは小型軽量ながら良く写る中判カメラとして名高いが,実際に使ってみると,距離計と連動するシンプルで見やすいファインダに負うところも大きい.セミ判のカメラで,一眼式距離計がきちんと連動するものは意外と少ないものだし,しかも距離計の二重像が合わせやすいものとなるとなかなかない.そうなると旧態依然とした赤窓式の巻き上げや,それと連動していないシャッターチャージも許せてしまう.III型なら巻き止めが備わるが,シャッターボタンとは連動しない(つまり二重露光や空送り防止は備わっていない)ということと,軍艦部とは反対側に突き出たその形がどうも煩わしく感じてしまう.これを反対側(アクセサリシューの付近.中身はがらんどう)に付けてくれればよかったのに・・と.IV型はその点良いのだが,大きく重くなった割にセルフコッキングにはなっていないし,そのくせ非常に高価なのには二の足を踏む.・・ということで結局,パールはII型に限るという結論であった.

KONISHIROKU Pearl-IIB, Hexar 75mm F3.5
Fujifilm Neopan ACROS,シュテックラー改処方(中川式)

(upload : Apr., 2007.)