高機能ポケット計算尺 ARISTO Nr.868

ここで紹介するのは,いわゆる5インチ(12.5cm)のポケット計算尺である ARISTO の Nr. 868 である.ポケット計算尺とは,標準的な大きさの計算尺(10インチ,実際には左右の基線の間隔がちょうど25cm)に比べて半分の長さの計算尺で,高さや厚みも小さく,持ち歩きに便利なものである.短い分だけ精度は落ちるが,そうはいっても1/2に落ちるだけなので,そもそも精確な値を求めることが出来ない計算尺にとっては大きな問題ではない.しかしいろいろな計算が手軽に出来ることが計算尺の利点であり,それだけ「取捨選択」の観点が肝になるといえるだろう.

この Nr. 868 の特徴として,表裏で合計 22 もの尺度があり,私が計算尺に求めるおおよその機能が全て揃っているのが魅力的である.その条件とは,以下のようなものだ.

  1. 基本となる C/D 尺だけでなく,CF/CF 尺を持つこと
    • 円形計算尺でない計算尺は目外れが発生するが,CF/DF尺があれば,多くの場合で回避が可能である.

  2. 三角関数関連の尺度 S, T, ST に対し,逆数尺 CI (または DI)が相対的に動くように刻まれていること
    • 長方形の対角線の長さの算出が,1度の滑尺の操作で可能となる.

  3. P尺(ピタゴレリアン尺)を備えること
    • 上とは逆に,長方形の対角線の長さと一辺の長さから他方の一辺の長さを計算できるものであるが,それよりも cos 0°, sin90°付近の値を精度良く求めるために多用される.

  4. LL1〜3, LL01〜03 を備え,LL1~3, LL01〜03 がそれぞれまとまった位置に置かれていること
    • 広い範囲で xy を求めるために必須で,工学的な計算のほか,複利計算など日常的な用途にも利用できる.
    • LL0/LL00を備えている計算尺もあるが,x が 0 に近い領域では ex = 1+x で良好に近似できるためC/D尺で代用ができ,なくてもよい.
    • LL1~3, LL01〜03 はそれぞれ全体として,基線の長さの約3倍の長さを持つ1本の尺度であると言え,組み合わせて使うことが多いため,表裏などに分けることなく,それぞれが一箇所に集まっているほうが使いやすい.

  5. 目盛りの読み取りが容易になる程度にオーバーレンジが刻まれていること
    • オーバーレンジは目外れを防ぐという役割もあるが,あまりやたらと刻まれてしまうと基線がわかりにくくなり,使いづらくなってしまう.ただし三角関数やLL尺など尺度によっては,きっちり基線の外側(左の 1 や右の 10 より外側)の目盛りを落としてしまうと数値が読み取りにくいことがあり,キリの良い数字までが刻まれていることが望ましい.

  6. 尺度の説明として,A/B, C/D, LL0 などの記号だけでなく,sin, log, exなどの数式による説明が付いていること
    • ある程度計算尺を使い慣れると C/Dや S/T/ST などの記号で十分にわかるというものの,数式を元に計算を進めるときに重宝することがある.

それでは逆に,なくてもよい尺度とはどのようなものか.例えば LL0/LL00 は前述したように x ≒ ±0 付近では 1+x で精度よく近似でき,実際に Faber-Castell の 2/83N, 62/83N ではD尺と共用になっている.双曲線関数 (sinh/cosh/tanh) は使わないし,必要であれば exで計算できる.平方根や立方根の計算に利用できる A/B, K 尺はまだしも,Pickett N4 のように平方根や立方根専用の尺度が刻まれている必要もない.実際,上に挙げただけの尺度があると実用には十分である.たとえば関数電卓を思い出していただきたい.様々な関数が搭載されているものでも,実際に使用するのは平方根,xy, ex, log(x), ln(x), sin(θ), cos(θ), tan(θ) とその逆関数ぐらいであろう.

多機能なポケット計算尺というと,もっとも尺度の多い汎用計算尺の1つである Faber-Castell 62/83N が挙げられる.これは10インチの Faber-Castell 2/83N とペアになった計算尺で,同じく30の尺度を持ち,また存分にオーバーレンジも刻まれている.しかしそれゆえ大きくなってしまっている.並べると次のようになる.

一目瞭然で小さいことが分かるだろう.幅だけでなく長さも大きく違い,二回りほど違う印象である.付属するケースも,構造は似たようなものであるが,やはり大きさが異なる.62/83N は非常に優れた計算尺であり,特にW1/W2 により(操作の手間は増えるが)10インチの計算尺と同精度の計算が可能である点は特筆に値するが,A/B尺とCF/CF尺が同居しておりA/Bが使いにくいことや,同じく裏面のC/D尺の間にW1/W1'尺があることでC/D尺が使いにくく,D尺がLL0と共用されているために補助数値が書き込まれていて見づらいことなどがあり,普通の計算尺のように使えるという点で ARISTO Nr. 868 のような適度なシンプルさは重宝である.また特に表では尺度が2本ずつ隣り合わせに配置されており,裏面でもLL尺は細身に刻まれているため,見た目に煩雑すぎない印象にまとめられていると言える.

国産のポケット計算尺と較べてみると,HEMMI では No. 149A が多機能なポケット計算尺として定評があるが,条件3(P尺の存在),条件5(オーバーレンジ),条件6(数式表記)を満たさない.また指数に関係が深い A/B/L/K 尺がLL尺とは反対の面にあること,三角関数の面に逆数尺(CI/DI)がないこと,ST尺がないこと,SI/TIやCI/CIFの並べ方により必要以上に煩雑に見える点も若干残念なポイントかもしれない.Relay No. 551/ RICOH No.151 もP尺が追加された他は似たようなものである.

ARISTO はドイツの計算尺メーカで,樹脂製であることを含め,仕上げや構造などはドイツを代表するメーカである Faber-Castell に近く,品質も遜色ないように思われる.目盛りや文字は単純な印刷ではなくかすれにくいし,カーソルも少し湾曲していて見やすい.

ARISTO Nr.868 のバージョン

この ARISTO-STUDIO Nr. 868 にはいくつかのタイプがある.ARISTO-STUDIO の赤文字が上にあるものや下にあるもの,滑尺にあるもの,滑尺の黄色い着色があるものやないもの,カーソルの材質や構造などの違いを持ついくつかのバリエーションが見られる.最終期にはT尺がT1とT2に分かれたものも存在する.

ARISTO の計算尺は,側面に刻まれた文字から製造年と工場が分かる.どちらもハンブルグ工場製であるが,左の個体は1965年製で,右は1967年製である.どちらも目盛りや文字の配置に違いはないが,左のものはカーソルの表と裏をつなぐ部分が金属製で,右は樹脂製となっており,ネジの個数や固定の仕方も異なる.また左の個体はカーソルが湾曲していないが,右のものはわずかに湾曲している. Nr. 868 はお気に入りの計算尺で,そうなるとどうしても予備機を確保してしまうが,意外と個体によって差異があるようである.