Nikkor-Q.C 5cm F3.5 : ニコン登場前のニッコール

初版:2006年5月
一部改定、リンク修正:2025年5月

日本光学は1917年、軍需用の光学機器(潜望鏡など)を国内で生産する事を目的に設立された会社だ(詳細はこちら)。しかし民需用の機器も戦前からいくらか手がけており、「ニッコール」の名称が付与される前から「アニター」レンズを設計製造したことがあるし、1935年には精機光学(現キヤノン)の黎明期のカメラにレンズ・レンズマウント・ファインダー光学系・距離計連動機構を提供していたことは有名である。また戦前・戦中にも軍用のカメラ(例えば、偵察に用いる航空写真機)を製造していたので、戦後登場したニコンは、日本光学にとって最初のカメラではないし、当然そのニコンに備えられたレンズも最初のニッコールではない。

上述の、キヤノンに装着されたニッコールレンズは、戦前に民間へ提供された日本光学の写真レンズとしては数少ない例であり、そもそも戦前の民需品の比重は大きくなかった。だが日本という国家が総動員態勢で戦争に全てを費やし、そして終戦を迎えるに至り、日本光学は軍需品に頼り切った経営体制から民需品への大転換を図ることになった。このときどのような製品が企画され、結果、最初のニコンが発売されるまでの経緯については多数の資料があるが、戦後の立ち上げ期に日本光学の屋台骨を支える存在になったニコンカメラ開発以外のストーリーについてはあまり語られる機会がないようだ。

上の写真のカメラとレンズは、ニッカ(Nicca III)と Nikkor-Q.C 5cm F3.5 沈胴である。ニッカはいわゆるバルナックライカのコピーであり、もちろん日本光学の製品ではない。製造元はニッカカメラ、これは元をたどれば、精機光学(キヤノン)の社員が1940年に立ち上げた光学精機社(後にニッポンカメラ、次いでニッカカメラに改称)という会社であった。戦時中はライカが入手困難であり、カードン(米国)やリード(英国)のように各国でライカのコピーを製造していた。それらの日本版という意味で、ニッカはそれらと同種と言っても良いと思う。

ともあれ、ニッカはライカの設計をそのまま採用していることや、軍の指令により戦時中も製造され技術的には完成していたため、設計製造に難渋していた1948年のニコン発売を待たず 1947年に製造販売を再開した。また戦前からカメラを製造していた精機光学(キヤノン)はもっと早く、1946年早々に販売にこぎ着けた。そのような訳で、日本光学は自社のカメラを立ち上げる前に、レンズの製造と販売を始めていたのである。この戦後最初に販売されたニッコールレンズは、まさにこれらキヤノン、ついでニッカに供給された 5cm F3.5 レンズであり、ニコンの資料でもこのライカスクリューマウントのレンズは終戦から4ヶ月後の1945年12月に製造を再開した、とされている。キヤノンやニッカの再開よりも先のことなので、レンズ単体で販売されたと思われる。しかしいずれにせよ、このレンズは双眼鏡とともに、いわばニコンの戦後復興の立役者だったと言えるのだ。

再開、と書かれているように、日本光学がなぜこのようにすぐレンズの供給体制を整えられたのかというと、それは設計が戦前から既に存在した、もしくはほとんどそれを修正する必要がなかったからである。例えば日本光学は、戦前のキヤノン(J型)向けにライカスクリューマウントに酷似した設計のレンズを供給していた。酷似した、というのは、キヤノンの当時のマウントはほとんど同じ寸法ながら、実はわずかにネジのピッチが異なるからである。また戦前のJ型などスクリューマウントを備えるボディは、距離計を持たなかった(ハンザキヤノンなど距離計を持つボディは、日本光学製の特殊なバヨネットマウントを使用していた)。

もちろんテッサー・エルマータイプの光学設計は第一次大戦後のドイツ人技師の指導により砂山角野が設計したものが戦前から存在したし、硝材も軍需用の在庫があった。戦後のレンズで異なる点を挙げるとすれば、設計が村上三郎氏によるものであるということや上で述べたような距離計連動の問題が挙げられる。他に大きな外観上の相違としては絞りリングの位置で、戦前のキヤノン用はライカのエルマーと同様にレンズの前面に絞りの指標とリングがあったものが、戦後のものはこのニッカ用レンズを含め、レンズの鏡筒側面に絞り指標と絞りリングが移動している。ただその分、レンズを沈胴させたときの寸法はエルマーに比べ長い。

外観の特徴としては他に、銘の文字列が挙げられる。S型ニコン用のレンズでは Nippon Kogaku Japan 銘より前に Nippon Kogaku Tokyo 銘が使われていた事は良く知られているが、このレンズでは Nippon と Kogaku の間にハイフンが使われているのが戦後のレンズでは非常に珍しい。これと同じ沈胴タイプの 5cm F3.5 で、シリアルナンバーが705から始まる続き番号のレンズでも、もう少し後の(シリアルナンバーが大きい)製品ではこのハイフンが省かれている。例えば、ニコンカメラ(ニコンI型)に装着されているニコンマウントの例では、沈胴レンズの可動部はライカスクリューマウントと共通と考えられるが、既にシリアルナンバーが 7051xxx と7桁になっており、またハイフンはない。

レンズの設計としてはシンプルなエルマー・テッサー型だが、絞りが第1レンズの直後にあることから、強いて言えばエルマー型と呼べるだろう(後の固定鏡筒のものは、第2レンズの後ろに絞りを置いたテッサー型となっている)。他には、赤字のCマークが示すようにレンズにはコーティングが施されていることが分かる。ニッコールレンズへのコーティングは1946年4月からで、このレンズが最初である。またこのレンズに関しては当時の雑誌広告が存在するが、これはこのレンズそのものの広告と言うよりは、日本光学が販売しているレンズにはコーティングを施している事を主張するものでった。なぜならコーティングは、日本国内では戦時中に発展した技術であり、双眼鏡や潜望鏡などの光学兵器に採用されたが民生用のレンズとしては例がなかった。このレンズが1946年8月発売セミミノルタIIIAに搭載されたロッコール7.5cm F3.5とともに、国内では最初にコーティングを施されたレンズだと言うことである(いずれも1946年で、どちらの販売が先行したのかは定かではない)。

このレンズは2002年ごろに入手した後、ニコンにてOHを行った。OHが可能かもしれない、とは聞いていたものの、やはりカウンターでこのレンズを出すのにはある種の勇気が必要だった。しかし受付の方は一瞬戸惑っただけで、了解しました、出来るとは保証できませんがお預かりします、と受け付けてくださり、しばらくの後に無事OHされて戻ってきた。このレンズでの実写の結果も、このニコンのサービス体制に応えるように上々だった。定評ある、枯れた設計であるとはいえ、後のニコンに装着されたゾナー型の F2 や F1.4 のレンズ、さらには最新のレンズに比べても遜色のない、周辺部までまとまった繊細な描写を見せる。特にコントラストのきつい夜景を開放で撮影してもハロが広がらず、コントラストの高さを保つのはやや驚きでもある。

最後に、この Nicca III について。ニコンでもごく初期のボディやレンズには、占領下であることを示す "Made in occupied Japan" の文字が(通常、ごく分かりにくいように)記載されている。この Nicca もこの文字列が刻まれているが、下の写真のようにはっきりと確認する事が出来る。しかしこの裏蓋開閉キーは、反対側へ倒せば文字が隠れてしまう。やはりそのように隠して使いたいというユーザ心理が存在する事を意識しての設計なのであろうか。

解説動画

その他の外観写真

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