ブロニカ開発秘話 第7話 1/1250秒

 ブロニカは最初のモデルからシャッター速度は倍数系列である.今では常識的に用いられている2のn乗の数値を基本にした系列,つまり 1, 2, 4, 8, 15, 30, 60, 125・・という数列は,ブロニカDが発売された1959年には既に標準的な方式であった.わざわざこのようなことを書くのは,戦後のカメラであっても1950年代前半までのカメラでは 1, 2, 5, 10, 25, 50, 100・・のようなシャッター速度(国際系列)が用いられたカメラがレンズシャッター方式を中心に多く存在していたからだ.それが一気に2のn乗の系列に移行したのは,EV値連動方式(露光量を保ったままシャッター速度と絞り値を同時に変更できる方式)や電気露出計が普及したためであろう.シャッター速度と絞り値の目盛りの間隔も,それまでのカメラでは等間隔でないものが多かったが,倍数系列のものでは等間隔になっているものが多いのも同様の理由による.ブロニカも最初の機種から等間隔目盛となっている.

 しかし,そうしてブロニカDのシャッターダイヤルを見てみると,どうしても1つ違和感を覚える部分があろう.それは,通常なら1/1000秒となるべきところの数値が 1/1250秒となっている点である.また一方,Dの二年後に発売されたブロニカSでは,最高速度が 1/1000秒となっている.ではなぜDでは 1/1250秒を最高速に採用したのか.ブロニカDに興味を持つものなら,多少なりとも気になる部分ではないだろうか.

カメラに詳しい読者であれば,同様の形式のカメラにしてブロニカの先輩格である,ハッセルブラッドの1600F/1000Fを思い出すかも知れない.やはりこのカメラでも,最初に販売された1600Fではその名の通り最高速が中途半端な 1/1600秒になっており,後継機種になるとこれが1/1000秒になっている.この理由はハッセルブラッドの歴史書や研究家に任せるとして, 一般論としては,最高速は系列に乗らなくても出来るだけ速いほうが便利であるという意見がある.確かに明るい場面で,できるだけ絞りを開いて撮影したいということはある.しかしブロニカの場合を見れば,これはたったの2割,1/4段である.大した差にはならない.

別の考え方としては「ちょっとだけ背伸びした」ということが思い浮かぶ.実際,そのような慎ましい努力をしているカメラはいくつかある.倍数系列なのに 1/250秒であるべきシャッター速度の最高速だけが 1/300秒になっている廉価レンズシャッターカメラも存在する.

だが当時の設計者の言によると,これらの「憶測」は全て間違いであった.その理由は,設計上の必要性によるものであるという.第2話で,フィルム平面性を確保するための研究開発の経緯について述べた.これによりブロニカは独自のフィルム安定装置を持つカメラとなったのであるが,通産省から受けた補助金は電子式シャッター試験機と合わせたテーマに関するものであった.フィルムによる撮影と現像を行わずにシャッター速度を検査するためには,光に対して非常に高速に反応するセンサが必要である.当時このようなセンサは半導体素子ではなく,真空管の一種(光電管)が用いられていた.フィリップス社製の光電管を輸入して作成した受光部はシャッター幕面の上・中・下の3個所に設置され,シャッター速度(ミリ秒単位)だけでなく先幕速・後幕速も計測可能であったという.

ともあれ,これでシャッター速度の試験がフィルムの現像をせずとも可能になったのであるが,そうするとどうしても 1/1000秒が安定に出せないという問題につきあたる.最高速でシャッターが走行する前の先幕と後幕との位置関係や,シャッターの係止解除機構などの関係もあろうが,1/1000秒を出すために幕速を落とすと今度は後幕走行後のミラーの復帰が不安定になったとのことである.そこで様々な工夫をしていたところに,最高速だけならば系列にこだわらずとも1/1250秒で良いではないかとの意見があり,それで決定したとのことである.

なお,ブロニカDではシャッターに独自の機構が採用されている.通常,高速シャッターでは,先に開いていく幕(先幕)の軸に取り付けられた部品が,閉じていく幕(後幕)の固定を外すことにより行われるが,この方式では後幕の固定が外される瞬間に先幕に力がかかり,わずかな露出ムラを生じる.ブロニカではこれを避けるため,先幕の軸とは別の軸を用意し,こちらで後幕を解除しているという.

さて,古いカメラ雑誌をめくっていると,後ろの方にカメラを詳細に検査した記事がたいてい付いている.カメラ研究の資料としても価値あるものなので,それらから主だったものを抜き出してまとめた書籍も販売されている.それを見ていると,機械式のカメラではシャッター速度が思った以上にばらついていることが分かる.特に最高速は仕様通りの速度にはとても届いていないものが多く,ものによっては表示数値の半分ほどの速度になっているものも見られる.実際,高速シャッターの露光時間を正確かつ安定に定めることは難しいらしく,カメラの検査規格でも低速シャッターに比べ高速シャッターの検査基準はゆるいものになっているようだ.これらを見ていると,とてもではないが 1/1000秒と 1/1250秒の差などほとんど無関係のことのように思えてくる.実際,カメラの検査基準では,この差は公差に収まる.それをわざわざ「規定の速度に合わせられなかったから」と ,ダイヤルに1/1250秒と刻んだブロニカDは,その数値に設計開発のきまじめさが表れていると言えよう.

シャッター機構については他にも様々な研究開発が行われている.耐寒性を確保するため,低温下でのシャッター走行試験も行われ,結果として耐寒性のある潤滑油として高価な深海サメの肝油(スクアレン)が用いられた.しかし低温試験ではどうしても-5度が限度であり,それを下回るとミラー解除が動作不良になることがあった.そのためブロニカDにはかの有名な,機能復元用ネジが装着されたとのことである.いずれにせよ製造後50年近くを経たカメラである.極寒時にはこの点に注意して使用されたい.


ブロニカD(後期型)のシャッターダイヤル

(2007.5)