Nikkor-S.C 5cm F1.4 (レンジファインダー用)

2015年9月


Nicca type-3, Nikon S2 との組み合わせ例。
Lマウント用とニコン用は同一の光学系であると言われている。

標準レンズといえば、多くの人が 50mm F1.4 を想起するだろう。35mmカメラ用レンズとして、この F1.4 という明るさを初めて実現したレンズがこの Nikkor-S.C 5cm F1.4 である。かのツァイスは1932年に、コンタックス要としてゾナー 5cm F1.5 を発売し、その約10年後にライツはズマリットにより同じく F1.5 を実現するが、これを「きりの良い」F1.4 にしたのは日本光学であった。もっとも初期のレンズはむしろ F1.5 に近かったとか、設計的に無理があると指摘されるなどいくつかの逸話も残されているが、日本光学の誇る標準レンズとして「ニコン」の名を世に広く知らしめるために大いに活躍したレンズであることには間違いない。

このレンズは先に述べたツァイスのゾナー F1.5 を模範として設計されたレンズであり、"S" の記号は7枚のレンズが用いられていることを表している。それらは貼り合わせられることで3群を構成しており、第2群と第3群がそれぞれ3枚のレンズの貼り合わせになっている点がこの種の大口径ゾナー型レンズの特徴である。戦前はコーティング技術が一般化しておらず、写真用レンズにコーティングが施されるのは(ごく一部のツァイス製レンズを除くと)戦後のレンズに限られる。これにより飛躍的に逆光耐性が高まりコントラストの高い写真が撮影できるようになったが、このころはまだシングルコーティングしか用いられておらず、空気界面が6面しかないことのメリットは依然として大きい。

そして肝心のその写りであるが、これはまさに玄人好みの面白いレンズである。見方を変えると、じゃじゃ馬であると言ってもいいかもしれない。しかしその、絞り値により表情を変えていく描写特性は1本で何役もこなしてくれる汎用性を持つということでもあり、特性を十分に理解したうえで使用するとその持ち味を発揮するレンズである。当時の技術や材料では難しかった、ややもすれば暴れようとする F1.4の明るさを、なんとか使い出のある、まとまった形に収めようとした技術者の苦労も垣間見える。ただ単調に開放から常に先鋭なレンズだけが良いレンズではないのである。


左:Lマウント、右:ニコンマウント

このレンズには、日本製のバルナック型カメラ "Nicca" に標準装着され、単体としても販売されたLマウント版のレンズと、ニコン用のレンズとが存在する。後に黒色塗装が一部に加わったもの(黒帯、黒鏡筒)も現れるが、比較したところでは描写に差異は見いだせなかった。いずれのマウントのレンズも非常に品質が高く、特にローレット部の輝きは眩しいほどである。レンズの状態もほぼ完璧で拭き傷などもなく、コーティングが効果的に施されていることに加え、上記のように空気界面が少ないことからヌケの良い描写が得られる。


Lマウント用は距離計連動範囲を超えて1.5feetまで近接できる。

ニコンはボディ側にヘリコイドを備えるため、レンズには絞りリングしか備わらないが、Lマウント版では距離計連動範囲を超えて 1.5feet まで近接できる機能を持つ。距離計連動範囲から外れることを警告するために、3feetと3.5feet の間あたりで一旦クリックがあり、そのクリック感に抵抗してさらにヘリコイドを回すと、倍の繰り出し量が得られる。レンジファインダー用レンズは70〜90cm前後までしか寄れないレンズが多いなか、このレンズはα7などのミラーレスデジタルカメラに取り付けた時には単体でも一眼レフ用レンズと同等の距離まで近接できるため、大変便利なレンズである。


絞り羽根は12枚で、どの絞り値でも円形がほぼ保たれる。

レンジファインダー用レンズでは絞り羽根を高速に開閉する必要が無いことや、鏡筒が細身であることもあって一眼レフ用レンズよりも多くの絞り羽根を持つレンズが多い(羽根の枚数が多いと1枚の羽根は細長い形状に出来るため、鏡筒をより細くすることが出来る)。このレンズも12枚の絞り羽根を持ち、どの絞り値でもほぼ円形の形状を保つ。


α7に装着したところ。ゾナータイプのため、大口径標準レンズとしては全長が短い。

ミラーレス一眼につけた時に気になるのはレンズの突出量である。ゾナー型レンズはその構成上、後に一般的になったガウス型レンズよりも全長が短くなる特性がある。レンジファインダー用レンズ同士で比較しても、ガウス型のレンズ(例えば距離計連動ニコン用の "オリンピック" 50mmF1.4)に対して10mm以上、さらに一眼レフ用のF1.4レンズと比べると20〜30mmほど短くて済み、装着時のバランスに優れる。補助ヘリコイドと組み合わせることで、1/5倍程度の近接撮影も可能である。

描写特性

Nikkor-S.C 5cm F1.4 (レンジファインダー用)は開放ではハロが非常に強いレンズである。そこでここでは、ハロの変化がわかりやすい金属質の被写体に対する描写特性の変化を示すこととする。Lマウントタイプの繰り出し機能に加え、ソニーα7との間に装着したヘリコイド付きマウントアダプターを繰り出すことで近接撮影をしている。ゾナー型のレンズは近接時の収差変動が大きいため、無限遠の描写とは特性に違いが出ていると思われるが、全体の傾向はつかめると思う。


F1.4

F1.7

F2

F2.8

F5.6

F11
この例では画面中央、レンズ基部の "feet" の文字にピントを合わせた。このレンズは大きな球面収差により、開放絞りでは画面中央でも強いハロ(光のにじみ)が生じることが特徴である。F1.4 開放ではソフトレンズに近いハロが生じ、やわらかな描写となる。ソフト効果を狙うには開放を積極的に使っていくのも面白い。このハロは絞りを絞っていくと急速に弱まる。半段絞るだけで(F1.7)ハロの強度は大きく減少し、一般の大口径レンズの開放絞りでの描写に近くなる。ハロは前ぼけに強く影響し、背景のボケの半径は収差特性の関係でF1.4から変化しないのは面白い。F2ではさらにハロが減少し、中央付近はコントラストが十分なレベルに達する。ニコンのレンジファインダー用レンズにはF2のレンズもあるが、同じF2同士では開放F1.4のレンズのほうが中心部についてはシャープでコントラストも高いため、明るさは欲しいがシャープな描写が必要なときはF1.4のレンズの絞りをF2に設定して使うことが多い。ただし周辺部のハロ(コマ収差などにより生じる)は残存するので、中央と周辺部の画質の差が大きい絞り値である。

F2.8 まで絞るとさらにシャープさを増し、周辺部の画質がぐっと良くなる。後に述べるが、このレンズではF2.8で画面周辺部の収差がうまくバランスし、一旦、比較的調った描写になる特徴がある。背景のボケも2線ボケ傾向がほぼ解消し、美しいボケとなる。F2.8 までは輝度差の激しいエッジの縁に緑色(合焦部より後ろ)や赤色(合焦部より前)の色づきが見られることがあるが、F5.6 まで絞るとかなり軽微になり、F11 では完全に解消する。


中央部を切り出したもの。

中央部を拡大した写真を示す。この写真ではF2.8 までの間、ハロが徐々に減少していることがわかるが、実用上は中央部であればF2まで絞ればほとんど問題ない。F1.4からF2までは背景のボケ量に大きな違いは出ない(絞りはハロの成分をカットするように働く)ので、この領域はソフト量をコントロールするために存在すると考えると使いやすい。

F2のレンジファインダー用ニッコール (Nikkor-H.C 5cm F2)と比べると、F2 のほうが F4 以上に絞ったときの周辺部の画質が高い。F1.4 のレンズは像面の平坦性やコマ収差など周辺画質に関する特性が劣るため、中央部は絞っていくと急速に鮮鋭化するものの、周辺部の甘さはF8程度に絞っても完全には解消しない。より詳細に比べると、絞り値F2ではF1.4レンズのほうが鮮鋭で、F2.8では全体として互角、F4 以上ではF2レンズのほうがまとまった画質を見せる。悪条件で立体物を撮影した時に映えるのがF1.4で、日中屋外での撮影や風景写真ならF2を使うのが望ましい。APS-C判のミラーレスデジタルカメラで中望遠レンズとして使う場合にはより鮮鋭度の高いF1.4のほうが好適であり、開放絞りでのやわらかな描写を含め、ポートレート用レンズとして使うのにも向いている。

撮影例

夜の町並みを開放絞りで撮影した例(カメラ:α7、Lマウント版 5cm F1.4)である。このレンズは、中央付近の大きな球面収差が画面の周囲ではケラれることでバランスし、開放絞りでは画面中央部と周辺部での画質差がさほど大きくないため、ソフトレンズ的な使い方がし易いという特徴がある。またピントの芯は開放からしっかりしているので、高輝度部を除くと細かなディテールが残り、写真として成立しやすい。ほぼ同じ位置から1段絞って撮影した例ではコントラストがぐっと上昇し、周辺部のコマ収差も尖った形状から丸い形状に変化することがわかる。

次に、フィルム(白黒)での作例を示す。ニコンS2にニコンマウント版 5cm F1.4 を取り付けて撮影した。

モノクロ写真ギャラリーphotogradation中のCoolidge Cornerからの1点である。適切な絞り値を設定することで、立体感のある描写が得られる。

モノクロ写真ギャラリーphotogradation中のCapturing the Lightからの1点である。日没〜夜間の撮影では F1.4 の大口径が威力を発揮し、大きなハロと細部描写のバランスが光源の明るさを際立たせる。

モノクロ写真ギャラリーphotogradation中のBoston Commonからの1点である。白の中の階調を豊かに表現してくれるレンズである。